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講中葬
昨日は実家に泊まりでして、家を空けておりました。こういうときに限って何かと起こるものです。部落内で不幸がありまして、今日が通夜、明日が葬儀です。
今回は「講中葬」といいまして、葬儀屋や農協などに頼んでの葬式ではなく、部落のもので葬式を出すという昔ながらのやり方です。私がこちらに来てから丸5年以上が過ぎましたが、これまでは農協葬ばかりでしたので講中葬は初めての経験です。
それほど大きく葬儀の流れが変わるわけではありませんで、違う点といいますと祭壇を社協(社会福祉協議会)から借りてきて組み立てたり、通夜や葬儀の進行を講中の者で行ったりと、つまりは業者がやっていたところも自分達で全て執り行うということです。
近年では田舎町にも葬儀屋の触手は伸びてきておりまして、大半が農協などに頼んでおります。講中葬のほうが部落の人間の手はかかりますが、実際にやってみると温か味があっていいものです。葬儀屋のようなヤラセ臭さも少ないので純粋に故人を偲ぶことができます。
今回の家は身内の人もほとんどなく、会葬人数からしてもかなりこじんまりとした通夜でしたが、つくづく感じました、大枚をはたいての豪奢な飾りや花、大規模に賑やかにとビジネスとしての拍車がかかる昨今の葬儀事情って一体誰のためなんでしょうねえ・・・と。
近所付き合いが希薄になっていく、社会性や協調性の欠落、利己的な人間の増加、ひいては田舎町の廃頽などなど、もっともらしく問題視されてはいますが、これらって結局はこうした「ちょっとしたひと手間」を惜しむ気持ちから発しているんでしょうね。
「そんなこと面倒くさい」「非効率的だ」「意味がない」などなど、いろいろともっともらしい言い訳はいくらでも聞きうけられますが、それでは上記のような問題が噴出するのは当然のことではありますね。
自分達の営みによって自分達の暮らしを完結させる。外からのモノや金や手間ばかりを待つばかりの乞食的精神はそろそろ終わりにしたいものです。
2008年04月07日 21:03
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ねこのてさん、
別に謝るようなことではないと思いますよ。自分が正しいと思うことと、社会が要求すること、そして真実在の世界とはなかなか一致することもなく、その狭間で我々も悩んだりもがいたりしているんだと思います。だから死ぬ直前にでも悟境に立てる人は幸せだと思います。
投稿者 kenzo : 2008年04月10日 00:19
kenzoさん、ごめんなさい。感情的になってしまって。また川口由一さんや福岡正信さんの本を読んでみます。無知で芯がしっかりしていないのが良くないですね、生き死にを悟るのは死ぬ寸前になってしまうかもしれません。
投稿者 ねこのて : 2008年04月09日 18:21
ねこのてAさん、
はじめまして。コメントありがとうございました。葬儀に対する希望というのはその人の死生観によるものなのかもしれませんね。昨今ではかなり多種多様な葬儀も行われているようですが、これもその現われなのでしょうね。生きるとはなんなのか、死ぬとはなんなのか、そして何のために葬儀なんかしているのか、そんなことを突き詰めていくと何が真であるかも見えてくるのかもしれません。真の世界に生きるものは表層に惑わされることもなく、自分の為すべきことも明確になってくるんでしょうね。
投稿者 kenzo : 2008年04月09日 16:34
こちらには初めておじゃまします。宗教観無視で不快に思われる方は多いと思いますが…私の葬式は形式的なものにしてほしくありません。父は常識世間体を気にするでしょう。仲良くもない人に迷惑がられながら来てもらいたくもありません。私の希望は、親戚衆もなく本当に来たい人だけ来てもらって、華やかなお花とクラシック音楽と珈琲紅茶お菓子で会を開いて欲しい。遠い田舎に埋まるより愛着有る所に居たい。庭木の成分になりたいな。一筆書かなきゃ! 又、愛おしい人を手放したくない為に剥製にするわけにはいかないので、ダイヤになってもらいたいと思っています。両手一杯分の遺骨が小さなダイヤになれるので、毎日一緒に居られます。葬式費用で業者に何百万も払わず質素にしてその分ダイヤ代にしたい。自分勝手なワガママかな。 お邪魔しました。
投稿者 ねこのてA : 2008年04月09日 12:40
